マルティン・ルターの生い立ち

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マルティン・ルターの生い立ち

マルティン・ルターの誕生

1483年11月10日、マルティン・ルターは、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで、父ハンス、母マルガレータの次男として生まれました。洗礼を受けた日が聖マルティヌス(4世紀のトゥール司教)の祝日であったため、彼にちなんでマルティンと名づけられました。マルティンが誕生して半年後、一家は、銅鉱の町マンスフェルトに移住しました(※)。マルティンの父は農民出身でしたが、鉱山経営で成功し、ある程度の社会的地位を得ていました。

※マルティンはマンスフェルトの教会付属学校(ラテン語学校)に通いました。13歳になると自宅から離れ、マクデブルクで、そして、アイゼナハで学び、1501年にエアフルト大学に入学しました。


1501年 エルフルト大学に入学(17歳)

法律家になるべく1501年5月にエルフルト大学に入学。文学部で法律を学ぶとともに、唯名論で有名なオッカムの思想を学び、「神の啓示こそ信仰の手引きである」との教えを受けます。これは聖書を中心とする宗教改革の源流にある考え方です。マルティンは、二年半後には17人中2番で教養学修士となり、1505年5月には、法学の上級学部へ進学しました。いわば「エリートコース」を歩んでいたのです。

※当時は、神・法・医の上級学部へ進学するためには、教養学修士であることが条件となっていました。


1505年 路上で雷雨に遭遇(21歳)

落雷の危急に遭うマルティン・ルター

落雷の危急に遭うマルティン・ルター

1505年の7月2日、帰省していたマルティンは、自宅(マンスフェルト)から大学(エルフルト)へもどる道の途中、シュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨に遭遇してしまいます。そのときの恐怖のあまり「聖アンナ様、お助けください。命が助かれば、私は修道士になります」と誓願の言葉が発せられました。落雷の危急(ききゅう)により、誓いを強制させられたように感じたとのこと。それから2週間ほど後、マルティンはエルフルト市内の数ある修道院の中からの戒律厳守派のアウグスチヌス会修道院に入りました。

※聖アンナはイエスの母マリアの母親で炭鉱労働者たちの守護聖人

マルティンの両親は修道院に入ることには大反対で、結婚して父の後を継いでくれることを望んでいました。マルティンは両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずに大学を離れ、修道会に入りました。


1505年 アウグスチヌス修道院に入る(21歳)

アウグスチヌス修道院/エルフルト

アウグスチヌス修道院/エルフルト

1505年7月17日、マルティンは、アウグスチヌス修道院に入り、1年間、見習いとして修業に励みました。 修道院の精神(アウグスチヌスの神学)は宗教改革の理念に近い内容であって、「行為によらず信仰によって救われる」という宗教改革の基本となった「信仰義認」の考え方と相通ずるものを持っていました。修道院に入った翌年の1506年の秋には、正式に修道士として受け入れられ、1507年4月、23歳で司祭に叙品されました。

1508年には、新設のヴィッテンベルク大学に講師として招かれます(※)

※これ以降、マルティンはドイツ北部のヴィッテンベルクに住むことになります。

マルティン・ルターの家/ヴィッテンベルク

マルティン・ルターの家/ヴィッテンベルク


1510年 ローマを訪問(27歳)

1510年11月から翌年の4月にかけて、アウグスティヌス会の7つの修道院を代表して修道会の命を受けて、二年間ローマを訪問します。そこで彼はローマ教会の腐敗と贅沢を目の当たりにします。また、1511年ネーデルランド出身のルネサンス最大の人文主義者エラスムスによる「愚神礼讃(ぐしんらいさん)」刊行されます。その内容は、当時の教会の腐敗を痛烈に批判するもので、マルティンはこの本に感銘を受けたといわれています。これらの体験も、彼の宗教改革への動機の一部となったと考えられています。

※現在のオランダ・ベルギー

※「痴愚神礼讃」の訳名もある。


1511年頃~ 塔の体験(28歳の頃)

1511年頃から翌年の夏頃までの間、マルティンは、どんなに熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても、罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、心の平安が得られないと感じていました。神の前で自分は絶対的に正しい(義である)と言うことはできないことに苦しみ続けていました。 そんなある日、突如光を受けたように新しい福音の理解(神学的発想)が与えられるという経験をします。 ルターは人間は善行(協働)でなく、「信仰によってのみ義とされる」こと、すなわち人間を義とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達しました。これにより、ようやく心の平安を得ることができたといわれています。これが宗教改革の原点となった「塔の体験」です。ルターが得たこの新たな福音の理解(神学的発想)は、「信仰義認」とよばれることがあります。

「塔の体験」はウィッテンベルク大学の学生寮の塔内の図書室で示されたところからそう呼ばれています。


1512年 神学教授となる(28歳)

1512年10月、聖アウグスティヌス会修道会の副総長シュタウピッツの推薦があり、マルティンは教授資格を取得し、さらに、神学博士号を受領します。 そして、ウィッテンベルク大学で聖書の講義を行うようになりました。

彼の最初の講義は1513年夏から1515年秋にかけての詩篇の講義で、その後宗教改革が起こるまでの間にローマ書、ガラテヤ書等の講義を行ないました。それらの講義の中に塔の体験から得られた新たな福音の理解(信仰義認)が導入されました。

※ローマの信徒への手紙(1515年冬~16年秋)、ガラテヤの信徒への手紙(1516年秋~17年春)、ヘブライ人への手紙(1517年春~18年春)の講義をしています。


1515年 修道院の管区長代理となる(32歳)

アウグスチヌス修道院の管区長代理となったマルティンは、教会での説教や著作の執筆、大学の講義などで、多忙を極めるようになります。



〔参考・引用〕
日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/wikipedia/光言社「日本と世界のやさしいキリスト教史(梅本憲二 著)」