マルティン・ルターの宗教改革 免罪符(贖宥状) 95か条の意見書

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マルティン・ルターの宗教改革

免罪符(贖宥状)の発行

ルネサンスの時代(14世紀~16世紀)、フィレンツェ(※)の商人の中で、最も力と財力を持ったのがメディチ家でした。16世紀、メディチ家出身のレオ10世がローマ教皇に就任します。彼はカトリック教会の総本山である「サン・ピエトロ大聖堂」を、ラファエロやミケランジェロといった、ルネサンスを代表する芸術家たちの作品で彩ろうと計画を進めていました。

※フィレンツェ…イタリア共和国中部にある都市。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配。メディチ家による統治の下、15世紀には、ルネサンスの文化的な中心地となりました。

しかし、それには莫大な費用がかかります。そこで、教皇は資金を集めるために「免罪符(贖宥状)」を発行しました。免罪符とは、「これをお金で買えば、生きている間に犯した罪が軽減される」というものです。

当時のヨーロッパは、ペストの流行がしばしば起き、人々は常に死への不安を抱えていました。免罪符を買えば罪が軽減され、死後の審判で赦され、地獄行きを回避できると信じ、人々はこぞって免罪符を買い求めました。

免罪符(贖宥状)「あらゆる聖人の委託と慈悲において、汝のあらゆる罪業を赦免し、刑罰を免除する。」

免罪符(贖宥状)「あらゆる聖人の委託と慈悲において、汝のあらゆる罪業を赦免し、刑罰を免除する。」

しかし、免罪符の販売はエスカレートし、教会は「打ち出の小槌(こずち)」のように濫発(乱発)するようになりました。結果として、免罪符の本来の意味が失われ、教会にとっては、単なる金集めの手段にすぎなくなりました。一方、民衆にとっても真の悔い改めを害するものになっていました。


ルターの怒りが爆発

教会の腐敗を訴えるため、95か条の意見書を教会の扉に掲示

教会の腐敗を訴えるため、95か条の意見書を教会の扉に掲示

しかし、この「免罪符」に異を唱え、教会の腐敗を批判したのがマルティン・ルターです。彼は「こんなもので罪から解放されるなど、信仰を愚弄(ぐろう)するものだ。」として批判します。1517年10月31日、マルティンは「95か条の意見書(※)」を発表し、教会の扉に掲示しました。その中で、カトリック教会の免罪符制度の乱用を批判するとともに、信仰の意味を問いかけ、これに対する公開討論を呼びかけました。ルターの行動は、やがてヨーロッパ全土を巻き込んで、「宗教改革」へと発展します。

※95か条の意見書…「95か条の提題」、「95か条の論題」などともいわれていますが、正式名称は「贖宥状の意義と効果に関する見解」です。教会の扉に掲示されたのは、ラテン語でしたが、ドイツ語に訳され、二週間のうちに、全ドイツ中に広まりました。ここに宗教改革の第一歩が開始しました。

※95か条の意見書を掲示した「教会の扉」とは、「ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉」のことです。

※サンドラ・へフェリンさん(ドイツ育ちの東京在住の作家)によると、現在でも「当時のカトリック教会は、ぼったくりをしていた」といった内容の会話が交わされているとのこと。今のドイツ人の感覚でも、自ら犯した罪をお金で解決できるという免罪符は、良くない歴史だったと多くの人が思っているようです。

※また、マルティン・ルターはプロテスタントを誕生させた人物として、ドイツで非常に有名だといいます。ルターはプロテスタントの人々からは、もちろん好感を持たれており、カトリックの人々も、ルター嫌うということはないといいます。


宗教改革へ発展

マルティン・ルターの「95か条の意見書」は、当時発明された、活版印刷の技術(※)により、広く世間に広まり大きな運動に発展しました。反響は大きく、多くの賛同者や支援者が現れ、マルティンの予想を超えて大きな教会の改革運動に発展しました。これが「宗教改革」です。

※活版印刷の技術が発明されていなかったら、マルティン・ルターの宗教改革は成功しなかったといわれます。

1818年10月のアウグスブルク帝国会議で、カエタヌス(※)はマルティンの疑義の撤回を要求しました。しかし、マルティンはこれを拒み、公会議のすみやかな開催を求めました。ここに、ルターとカトリック教会(ローマ教会)との対立が明確になりました。

※カエタヌス:カトリック神学者、ドミニコ会修道士

※公会議:ローマ-カトリック教会で、教皇が全教区の枢機卿(すうききよう)・司教・神学者などを集め、教会の教義・規則などの重要事項について行う最高会議。その決議は全教会に対して拘束力を有する(大辞林 第三版)。


破門宣告・処刑宣告

1519年のライプチッヒでの神学討論会では、カトリック教会最大の理論家といわれる神学者ヨハン・エックの巧妙な戦術にはまり、マルティンは異端者とされてしまいました。

1520年、マルティンは立て続けに文書(※)を発表し、ドイツ国内では、ルターの考えに賛同する人々が増えていきました。

※「ドイツのキリスト者貴族に与える書」「教会のバビロン捕囚」「キリスト者の自由」

この事態に、教皇はだまっている訳にはいかず、教皇の権威や教会組織が否定されることをおそれたため、マルティンはカトリック教会から破門宣告をされてしまいます。さらに、1521年4月、ヴォルムスの帝国会議では、処刑を宣告されてしまいました。皇帝からも見放され、命を失ったも同然でした。


ラテン語聖書をドイツ語に翻訳

マルティンは、ヴォルムスの帝国会議から帰途につきましたが、途中のチューリンゲンの森で消息を断ちます。武装集団に拉致され、暗殺されたとの噂が広がりましたが、実は、選帝侯(※)フリードリヒによって、ヴァルトブルク城にかくまわれたのです。

※選帝侯:神聖ローマ帝国の皇帝選挙権をもった有力諸侯

その後、マルティンは、1年近くを城内で暮らします。その間、マルティンは、城の一室にこもり、それまでドイツでは一部の人にしか読めなかった新約聖書を、ギリシャ語原典から、誰もが読めるドイツ語に翻訳しました。翻訳された聖書は印刷技術によって数多くの人々に広まり、誰もが聖書を手元に置くことが可能になりました。更に、賛美歌もドイツ語に翻訳されました。こうして、人々は神の言葉を直接知ることができるようになりました。やがて、カトリックに反発し、分離した人々が、「プロテスタント(※)」という新しい宗派を誕生させます。同時期に開花したルネサンスの精神と同じく、キリスト教も一人ひとりが向き合い、信仰を深める宗教へと変化していったのです。

※プロテスタント=抗議する者


カトリック教会の力が喪失

カトリック教会に反旗をひるがえしたルターの宗教改革は、やがて政治の世界にも影響をおよぼします。当時の神聖ローマ帝国の皇帝は教皇を支持していました。一方、日頃から皇帝の支配に不満を持つ小さな国々は、ルターの宗教改革を支持しました(※)

※その中には、純粋にルターの教えに賛同するものもいれば、教会が持つ領土を奪い勢力を拡大することを目的とする者もいました。

やがて宗派をめぐる対立が激しくなり、帝国内は混乱状態となります。 そして1555年、アウクスブルクの宗教和議でようやく対立関係は終結し、ルターの宗派は神聖ローマ帝国内で信仰を認められます。

この時、宗派を選ぶ権利は、個人には認められず、国が決定権を持つこととなりました。こうして、それまで支配力が大きかった神聖ローマ帝国や教会は力を失っていきました。代わって、それぞれの国が支配力を高めていく時代へと突入することとなります。



〔参考・引用〕
NHK高校講座/山川出版社「要説世界史」/いのちのことば社「まんがキリスト教の歴史」/光言社「日本と世界のやさしいキリスト教史」/wikipedia/コトバンク