ローマ 共和制から帝政の開始まで
ローマは、ポエニ戦争で地中海世界に領土を広げたものの、長期にわたる征服戦争は、ローマ社会に多くの歪を生んでしまいました。
内乱の一世紀
ローマの領土が拡大していくにつれて、元老院メンバーをはじめとする貴族たちは、莫大な富を手にするようになります。一方、重装歩兵として軍の中核を担っていた平民(中小農民)たちは、相次ぐ戦争によって疲弊していきました。
そんな中、元老院の伝統的権威を重んじる閥族派と、護民官(※)を中心とする平民派という2つの派閥が争うようになります。対立は次第に深まり、紀元前2世紀後半からの100年間は「内乱の一世紀」と呼ばれる状態に陥りました。
※古代ローマ共和制時代に、貴族と平民との間に立ち、平民の身体・財産を保護した官職。平民会から選出され、元老院の議決に対する拒否権を持ち、その身は神聖で、これに不敬を加えるものは厳刑に処せられた。
(kotobank.jpより引用)
ユリウス・カエサルの決断
カエサルの進撃
ユリウス・カエサルが生まれたのは、そんな混乱状態のさなかでした。やがて、元老院の一員として政治に携わるようになったカエサルは、共和政の限界を感じ始めます。
そしてガリア(現在のフランス)の反乱を鎮めて凱旋する途中、大きな決断を下します。ローマとガリアの境を流れるルビコン川に差し掛かったときのことです。この川を越えてローマに戻る時には、軍隊の武装を解かなければならない決まりになっていました。しかし、このまま軍を進めてローマを制圧すれば、カエサル個人が大きな権力を手にすることができます。そして、カエサル個人のリーダーシップで、混乱した政治を立て直せるはずだと考えました。
カエサルは賭けに出ることを決め、ついに進軍の号令をかけました。武装したままの軍隊を伴って、ルビコン川を渡ったのでした。この時、カエサルが言った言葉が
“Alea jacta est”=「賽(さい=サイコロ)は投げられた」
でした。賭けの結果、カエサルは武力制圧に成功します。
紀元前45年、強大な権限を持つ独裁官となりました。
パクス・ローマーナ(ローマの平和)
これにより、内乱は収まり、社会は安定するかに思われました。しかしその翌年、共和政の崩壊を恐れた人々に謀られて、カエサルは暗殺されてしまいます。
共和制崩壊を恐れた人々の謀略でカエサル暗殺される
再び始まった内乱に終止符を打ったのが、カエサルの養子のオクタヴィアヌスでした。紀元前27年、オクタヴィアヌスは元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受けて、ローマ帝国の初代皇帝になり、帝政が開始します。アウグストゥスは、帝政を始めた後も共和政の形を残しました。皇帝の独裁を防ぐため、元老院と市民が帝国をチッェクするというしくみを尊重し、皇帝は元老院と市民の代表者であるという立場をとりました。
その後のおよそ200年間は「パクス・ローマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる平和な時代が続きます。「強力なリーダーシップの下でこそ政治は安定する」というカエサルの考えが正しかったことが裏付けられることとなりました。カエサルがルビコン川を渡ったからこそ、パクス・ローマーナが訪れたのです。
〔参考・引用〕
NHK高校講座「世界史」/山川出版社「詳細 世界史B」/NHK高校講座 世界史/池田書店「マンガでわかる世界史」/中経出版「忘れてしまった高校の世界史を復習する本」/教材工房「世界史の窓」