旧約聖書失楽園の物語
Peter Paul Rubens 1615
人間社会には、善くないこと(悪や犯罪、苦しみ、不幸など)が蔓延っています。その根源を神話の中に見出そうとするとき、人類の始祖が何らかの失敗することにより、後天的に善くないことが生じてしまったことが読み取れます。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの聖典となっている旧約聖書には「失楽園の物語」に失敗談が記録されています。そこでは、人間始祖(アダムとエバ)が善悪を知る木の果を取って食べたことが諸悪の根源(原罪)としています。
旧約聖書「失楽園の物語」
聖書に登場する神は、唯一神ヤハウェです。天地創造の第1日から第6日にかけて、人間が快適に生活できる環境を創造し、最後に人間始祖であるアダムとエバを創造しました。神はアダムとエバをエデンの園に住まわせました。そして、神が創造した被造世界(万物)をすべて与え、管理(主管)するよう命じます。
※ここで創世記の天地創造の1日は24時間のことではなく、段階(ステージ)を意味していると考えられます。第6日とは、天地創造の第6ステージになります。
さらに神は絶対に破ってはならない戒律を二人に与えます。「エデンの園のどの木から取って食べてもよい。ただし、善悪知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうだろう。」
しかし、ヘビがやってきて、エバを誘惑します。「木の実を食べても決して死ぬことはない。それどころか、木の実を食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
エバが善悪知る木を見るといかにも美味しそうで、美しく、賢くなるように見えました。エバはヘビの誘惑に負けて、禁じられた木の実を食べてしまいます。次に、エバがアダムにも食べることを勧めたので、アダムも木の実を食べてしまいます。その結果、二人は、裸でいることが恥ずかしくなり、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆いました。そして、神は命令を守れなかった二人をエデンの園から追放しました。
※古代メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」にも、ギルガメシュが蛇により不死性を奪われてしまったエピソードが記録されています。
失楽園の物語の疑問
失楽園の物語を文字どおり理解しようとすると、不自然な箇所があることに気が付きます。神は、人間の親(父母)であり、愛なる存在とされています。そのような神が、食べたら死ぬような実がなる木を、最も目に付きやすい園の中央に植えるのでしょうか。愛なる神が食べたら死ぬような毒の入った木の実を、いかにも美味しそうで、魅力的なものとして創造されるのでしょうか。
また、失楽園の物語には、「禁じられた木の実を食べる前は裸でいることが恥ずかしくなかったが、食べてしまった後は、恥ずかしくなり、腰をいちじくの葉で覆って隠した」と記されています。その後、エバとアダムが毒にあたって死んでしまったとは記されてはいません。
このように失楽園の物語を記された言葉の通りに解釈するといくつかの不可解な箇所が残ります。
アダムとエバは何をしたのか?
「Adam and Eve」 Gustave Dore
ところで、人間が過ちを犯してしまった場合、過ちを犯したところや犯罪に使ったものなどを隠すという本能のようなものを持っています。身近な例では、思わず失言してしまった場合は、さーっと手で口を隠すことがあります。また、犯罪者が犯罪に使った道具や凶器などを人目につかない森の奥深くに隠したり、川の中に捨ててあったなどということがしばしば報道されます。
アダムとエバは、禁断の木の実を取って、食べた後、手を隠したのではなく、口を隠したのでもなく、腰をいちじくの葉で隠しました。取ったことや食べたことが犯罪なら手や口を隠すことでしょう。しかし、聖書には「恥ずかしくなって腰を隠した」と記されています。つまり、アダムとエバは、腰で罪を犯したと考えられます。また、神から食べたら死ぬと言われていた善悪知る木の実を食べてしまいました。この木の実は、人間にとって、生死を超えるほどの強い魅力があるものと考えられます。腰に関係して、生死を超えるほどの魅力があるもの…。それは、愛に関係する行為以外には考えられません。
アダムとエバは、誤って愛の犯罪を行ってしまったのではないでしょうか。つまり、神が認める前に性行為をしてしまったということが推測されます。
人間にとって最も尊いはずの男女の愛の行為が卑しい行為と見られてしまうのも、人間始祖のこのような過ちにルーツがあるのではないでしょうか。
※日本神話にも、イザナギとイザナミが間違った愛の行為をしてしまい、未熟児が生まれてしまったと記されています。また、性行為を悪とする宗教も多くありますし、ユダヤ教では、割礼(=生まれてから8日目に男子の性器の包皮を切除する)を行っています。
生命の木と善悪知る木
このような観点から聖書を解釈した場合、禁断の木の実(善悪知る木の実)も、文字通りの木の実ではなく、何かを象徴的に表現したものと考えられます。また新約聖書には、次のような記録もあります。
それからイエスは、群衆を呼び寄せて言われました。「いいですか、よく聞きなさい。禁じられている物を食べたからといって、それで汚れるわけではありません。人を汚すのは、口から出ることばであり、心の思いなのです。」
©いのちのことば社「リビングバイブル」
聖書では、アブラハムを「オリーブの木」に喩えたり、イエスを「ぶどうの木」に喩えるなど、人物を木に喩える場面が多くあります。エデンの園の中央には「生命の木」と「善悪知る木」がありました。そして、失楽園の物語の最後には、アダムとエバを追放し、生命の木へ至る道をケルビムという天使と回る炎の剣で守られたと記録されています。つまり、生命の木は厳重な護衛が必要なほど重要なもので、アダムは、エデンの園を追放され、生命の木に至る道を閉ざされてしまったということです。
また、旧約聖書の「箴言」には「生命の木は、望みである」、「神に従う人の結ぶ実は生命の木となる」となどの表現が見られ、生命の木は、人々の理想であることもわかります。
このことから、生命の木は、本来、アダムが到達すべき木であり、神の理想どおりに成長したアダム。つまり、完成したアダム(人間/男性)を象徴していることが推測できます。そして、園の中央に生命の木と並んで生えていた善悪知る木は完成したエバ(人間/女性)ではないかということも類推できます。
善悪知る木の実
植物としての木の実は、次の世代へ生命を受け渡す最も大切なものです。善悪知る木がエバを象徴しているのなら、最も大切な木の実は、エバの愛やエバの貞操に相当するものを象徴していると推測できます。旧約聖書の失楽園の物語では、人類始祖のアダムは未熟な段階でエバの愛を食べて、貞操を汚してしまい、その結果、未完成な人類(子孫)が増えてしまったということ表現しているのではないでしょうか。
禁を破ることにより、悪が広がったという話は、ギリシア神話の「パンドラの箱」にも記されています。「失楽園の物語」からは、神の命令に従わなかったことでが大きな犯罪であり、神を激怒させてしまったこと、悲しませてしまったことが読み取れます。
しかし、それが原因で、こんなにも罪悪世界が広がってしまうものなのでしょうか。それを聖書から読み取るためには、さらに、踏み込んだ解釈が必要なようです。人間を誘惑したヘビの正体も手がかりになるかも知れません。
いのちのことば社「リビングバイブル」/河出書房新社「聖書物語 旧約篇」/世界平和統一家庭連合「原理講論」