イスラームの誕生ムハンマドの生い立ち・結婚・啓示・布教
イスラームは7世紀初頭にアラビア半島で生まれた、アッラーを唯一神とする宗教です。創始者はアラビア半島のメッカで生まれたムハンマド(紀元570~632)。彼は預言者として神からの啓示を受け、その内容はイスラームの最も重要な聖典「コーラン」として編纂されました。コーランはイスラームの信仰の基盤となっています。ムハンマドはメッカからメディナに移住してイスラーム共同体を築きました。ムハンマドは純潔で慈悲深い人物とされ、彼の行動や言葉は「ハディース」として伝えられています。イスラーム教徒はムハンマドを、最後にして最大の預言者として信仰しています。
ムハンマドの幼少~青年期
ムハンマドは、6世紀後半(570年頃)にアラビア半島のメッカで生まれました。彼の父(アブドゥッラーフ)はメッカの名門ハーシム家出身の商人でしたが、ムハンマドが生まれる前に亡くなり、彼は砂漠のベドウィン族で数年を過ごしました。
6歳のとき、母親(アーミナ)によってメディナに連れ戻され、そこで一時過ごしましたが、やがて母も亡くなり、ムハンマドは孤児となりました。祖父(ハーシム家の家長である祖父のアブドゥル・ムッタリブ)に引き取られたものの、祖父も8歳のときに亡くなり、最終的には父方の叔父(アブー・ターリブ)に育てられました。彼の幼少期は孤児であり、親戚たちの中で転々とし、教育の機会も限られた苦しい環境でした。
10歳のときには叔父の隊商(キャラバン)に随行し、商取引の雑用をこなしました。その後、20歳を過ぎて独り立ちし、シリアなどへの隊商旅行に参加しました。商人としての信頼性と誠実さが評価され、「アル=アミン」(信頼できる者)と呼ばれるようになりました。25歳になると隊商のリーダーとなりました。
Camel Caravan in the Desert - Ralph A. Ledergerber
※「ムハンマド」はアラビア語での呼び名です。ヨーロッパでは、ラテン語由来の「モハメッド」、「マホメット」という呼称が用いられています。
※隊商…主に砂漠地方で隊を組んで旅する商人の一団のこと。叔父やムハンマドは、ラクダに物資(皮製品や象牙、香料など)を積んで、シリアまで運び、麻、綿、オリーブ、ぶどう酒などを買い付けて戻ってきました。旅の途中で遊牧民などの略奪にあう可能性もあり、とても危険だったようですが、大きな利益が見込まれる仕事でした。そのため、隊商には武装の護衛をつけるなど、組織的な一面があったようです。
ハディージャとの結婚
裕福な女商人ハディージャは、ムハンマドの評判を聞きつけ、彼を呼び寄せました。ムハンマドはハディージャに仕え、彼女の代理人として各地で交易に従事しました。ハディージャは先立つ2人の夫の遺産を受け継いだ裕福な商人で、お金を出してムハンマドに隊商貿易を行わせて儲けました。
ムハンマドの仕事ぶりに感銘を受けたハディージャは、彼に結婚を申し込みました。当時、ムハンマドは25歳であり、ハディージャは40歳でした。彼女はビジネスの手腕を持っており、ムハンマドはただ働きさせられるのではないかと疑念を抱き、ハディージャの真意を確かめるために人を介して尋ねました。最終的に、ハディージャの愛情が真剣であることを知り、2人は結婚しました。これにより、ムハンマドはメッカの大商人の旦那として、裕福で安定した生活を始めることとなりました。
経済的に安定したムハンマドは、家庭の安らぎを得ることができ、ハディージャとの間には、娘のファーティマを含む複数の子供が生まれました。
ムハンマドはハディージャ以外にも複数の妻を娶りました。彼の結婚は、時に政治的・社会的な繋がりを強化するため、あるいは戦争で孤児となった女性たちを保護するためなど、さまざまな背景がありました。ムハンマドの妻たちは、彼の教えや行動においても重要な役割を果たしたといわれています。
ヒラー山の洞窟での瞑想から生まれたイスラーム
ムハンマドの瞑想の場となったといわれているヒラー山の洞窟
ムハンマドは一途な性格で、これが人々からは頑固に見え、クライシュ族の指導者たちから疎まれるようになりました。そのため、次第に部族長や大商人たちから仕切られるようになり、社会的に孤立してしまいました。
40歳になったムハンマドは、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想に没頭しました。この洞窟で大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、神の言葉を受け取りました。このとき、ムハンマドは、ジブリールによって羽交い締めにされ、神の啓示を覚えさせられた出来事が起こりました。後に、ムハンマドはこのときに覚えた神の言葉を人々に伝え、それがイスラームの創始となりました。この出来事は、紀元7世紀初頭におきたもので、イスラームの興りに大きな影響を与えました。
※ジブリール(ガブリエル)…キリスト教では、受胎告知の天使としてよく知られています。イスラームでは、ムハンマドに神の言葉「コーラン(クルアーン)」を伝えた最高位の天使として位置づけられています。
神からの啓示
ムハンマドが啓示を受けたとされるヒラー山
いつものように、ムハンマドがヒラー山の洞窟で瞑想していると、突然、空から現れた天使ジブリール(ガブリエル)が、ムハンマドを不思議な力で締め付けました。その時、ジブリールは「誦め!」と命じました。しかし、ムハンマドは文盲で読み書きができないため、「誦めません!」と答えました。でも、ジブリールは繰り返し「誦め!」と命じるので、口を開けて声を出した瞬間、自然に神の言葉を誦むことができたのです。ムハンマドは驚きとともに天使の言葉を復唱しました。すると、ジブリールは消え、締め付けていた不思議な力も解けました。ムハンマドが天使ジブリールに締め付けられたのは、驚いて逃げないようにするためだったといわれています。
※誦む(よむ):覚えて、声に出して、唱えること
この出来事で怖くなり、急いで山を降りて家に帰ったムハンマド。最初は自分がジン(妖精・幽鬼)に取り憑かれたのではないかと思い、毛布にくるまって怯えていました。しかし、同じ体験が続くうちに、妻のハディージャに告白しました。ムハンマドは悪霊に取り憑かれているのではないかと不安に感じ、ハディージャは心配して彼をなぐさめました。その後、同じような体験が続き、ムハンマドは妻に教えられた言葉を話すようになりました。
しかし、ハディージャも心配になり、ムハンマドは彼女のいとこに相談しました。いとこは、「ムハンマドのような体験をした預言者は過去にも何人かいて、アブラハム、ノア、モーセ、イエスなども同じような体験をした」と答えました。ハディージャは安心し、その話をムハンマドにします。その後、ムハンマドは、自分も神の言葉を授かる「預言者」ではないかと気づき始めました。
天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド
その後、天使ジブリールは時折現れ、神の言葉をムハンマドに伝えるようになりました。神は唯一であり、かつてイエスたちを預言者として送ったが、その後の人々は預言者の言葉を間違って解釈して教えがゆがめられたため、ムハンマドに新たな啓示を授け、人々を正しく導いてほしいと伝えました。
ある晩、ムハンマドはカーバ神殿の中で寝ていると、天使ジブリールが現れ、天馬ブラークに乗せてエルサレムの神殿まで連れて行きました。その後、ムハンマドは神殿の岩から昇天し、アダムやアブラハム、モーセ、イエス・キリストなど8人の預言者たちと出会い、最後に神アッラーと接見しました。ムハンマドは、神アッラーから言葉を賜りました。この体験の後、再び天馬ブラークに乗って、再びカーバ神殿に戻ったとされています。昇天した場所には後に(ウマイヤ朝の時代に)、岩のドームが築かれました。
天馬ブラークに乗って昇天するムハンマド
ムハンマドの布教活動
ムハンマドは、自分が神からの啓示を受けた預言者であり、神の言葉を広める使命を与えられたと確信しました。しかしながら、ムハンマド自身は商人出身であり、辻説法で人々に語りかけることは困難でした。そこで、最初は身近な人々に布教を始め、最初の信者となったのは妻のハディージャでした。ハディージャはムハンマドの言葉を信じ、イスラームの初の信者となりました。さらに、親戚を訪れても布教し、数人の親戚もムハンマドの言葉に共感し信者になりました。叔父で育ての親であるアブ・ターリブの息子のアリー、親友のアブー・バクル、いとこであるウスマーン、ズバイル、タルハ、そして有力者のウマルなどが入信し、彼らは後のイスラームの指導者(カリフ)となりました。
ムハンマドが人々に言葉を伝えるとき、しばしば神がかり状態になり、美しい言葉で詠まれた詩のような言葉が流れました。当時アラビアでは詩人が尊敬され、詩のコンテストも開かれていました。そんな折、教育を受ける機会もなかった商人ムハンマドが、天才詩人がつくったような言葉を発するので、人々は彼を神の言葉を伝える預言者と見なすようになりました。この噂は広まり、人々がムハンマドの元に集まるようになりました。
ムハンマドは商人仲間にも布教を始めましたが、商人たちは信用を失ないかねないので、布教をやめるように忠告します。しかし、ムハンマドは自分が神の言葉を預かっていると確信していたため、商人たちの忠告を無視し続けました。商人たちは神の言葉を信じない者と見なし、対立が生じ、やがて商人たちはムハンマドを迫害するようになりました。
イスラームの聖典「コーラン」
ムハンマドは、啓示を受けた初日から23年間、神の言葉を預言者として伝え続けました。その言葉は椰子の葉に書かれ、後にまとめられてイスラームの聖典である「コーラン」となりました。
「コーラン」は正確な発音を反映すると「クルアーン」となります。この言葉はアラビア語で「声に出して読むべきもの」を指し、聖書のような物語的な形ではなく、美しい押韻散文詩で構成されています。コーランを声に出して読むと、独特のリズムと美しい響きが生まれ、まるで音楽のような感覚を味わえます。また、コーランはアラビア語での朗読が必要であり、ムハンマドの口から発せられた言葉は天使を介してアラビア語で神から伝えられたものであるため、変更することはできません。他の言語への翻訳はコーランの解説書とされ、イスラーム教徒はアラビア語の理解が必要です。
コーランの中心的な教えは、この世の終末(終末)における「最後の審判」に備え、唯一神アッラーから下された啓示に従って正しく生きることです。それに従い、楽園への道を歩むことが求められます。
コーラン ~ 口承から書承へ
最初の頃、「コーラン」はムハンマドの言葉をそのまま記憶し、復唱できるクッラー(誦経者)たちが口承によってその言葉を広めていました。しかし、時が経つにつれてクッラーが減り、また伝承の中でわずかなずれが生じるようになりました。ムハンマドの言葉が正確に後世に伝わることが懸念され、変更の可能性が浮上しました。
その懸念に対処すべく、2代目カリフのウマルは、最初のカリフでありムハンマドの親友であったアブー・バクルに対し、ムハンマドの言葉の編集を行うよう要請しました。アブー・バクルは「ムハンマドが行わなかったことをするべきか」と迷いましたが、ウマルの強い説得に押され、結局、ムハンマドの秘書であったザイドに編集を命じました。
これが「ウスマーン写本」の原典となり、ここから「クルアーン」は書かれる歴史が始まりました。ムハンマドの言葉を厳格に守るための努力から生まれたコーランの写本は、書承によって後世に正確に伝えられ、イスラームの聖典として広く受け継がれています。
アラブ民族とパレスチナ問題のルーツ
アラブ民族とパレスチナ問題のルーツは、イスラームの創始者ムハンマドの血筋にまでさかのぼります。ムハンマドの家系は旧約聖書に登場するアブラハムに繋がります。アブラハムの子孫であるイサクの一派がユダヤ民族を形成し、もう一方のイシマエルの子孫がムハンマドを輩出しました。イサクとイシマエルは異母兄弟であり、アブラハムの時代にはイシマエルが母ハガルとともにアブラハムによって追放されたとされています。
この歴史的な出来事が、現代のパレスチナ問題に影響を与えています。ユダヤ人によるアラブ人の土地からの追放や難民化は、アブラハムの時代の出来事とも呼応しているように見えます。アラブ人がパレスチナを追われ、難民となった背景に、歴史的な因縁が影響していることが理解されます。この遠い過去から続く歴史的な関連性が、中東地域の複雑な情勢に影響を与えています。
※絵画はアブラハムに追放されたイシマエルと母のハガルを描いたもの
金岡新氏「世界史講義録」/中経文庫「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/「松岡正剛の千夜千冊」/ピュー・リサーチ・センター「世界宗教動向に関する調査」- 2012年12月18日/sarasayajp「イランという国で」/wikipedia