正統カリフの時代イスラム勢力の大発展
ムハンマドの最期
632年、ムハンマドはメッカへの最初で最後の巡礼を行い、その後メディナに帰還しました。この大巡礼の際、ムハンマドはイスラム教の五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を指導しました。
大巡礼を終えてまもなく、ムハンマドの体調は急速に悪化し、メディナの自宅で病に倒れました。632年6月8日、ムハンマドを最期の遺言を残し、昇天しました。
ムハンマドはメディナの自宅の最愛の妻ハディージャの部屋で没し、すでに亡くなっている妻と同じ場所に埋葬されました。その場所は後に預言者のモスクとなりました。
最後にして最大の預言者
神はこれまでアブラハム、モーセ、イエスなどを通じて、人々に自らのメッセージを伝えてきました。預言者たちは神の言葉を受け取り、それを人々に伝える使命を担っています。イスラームの教えによれば、神は時折、預言者たちを通じて段階的に教えを与えてきましたが、最終的な言葉のすべてを預言者ムハンマドに託したとされています。このため、ムハンマドは「最後にして最大の預言者」とされ、彼の後には同様の預言者は現れないとされています。ムハンマドの昇天後、神の言葉はクルアーンとして完結し、これがムハンマドの啓示として全ての人々に適用される最終的なものであるとの信念が広まりました。
ムハンマドの後継者
ムハンマドは後継者を指名せず、後継者選びの基準を示さないまま632年に亡くなりました。彼の7人の子供(※)たちは若くして亡くなり、唯一生存していたのは末娘ファーティマでした。この状況から、イスラームは大きく「スンニ派」と「シーア派」に分かれることになりました(両者の違いは、おもに後継者選びの考え方の違いです)。
※1:3人の息子と4人の娘(息子は2人という説もあります)。
632年には、イスラム共同体(ウンマ)はアラビア半島を統一し、大きな勢力に成長していました。後継者問題が浮上し、信者たちは自らの指導者(ムハンマドの後継者)を選ぶために選挙を行うことになりました。この指導者を「カリフ」と呼び、「預言者の代理人」を意味します。
ムハンマドの家系に近い信者たちは、血統を重視して後継者を選ぶべきだと考えていました。アリーという人物が、ムハンマドの血縁者であり、末娘ファーティマの夫であるため、預言者の血統を継ぐとして彼を支持しました。しかし、他の信者たちは血縁関係ではなく、イスラムの慣習を尊重すべきだと主張しました。最終的には、アブー・バルクが選挙において信者たちからの信頼を得て、初代カリフとして選ばれました。
こうして、初代のカリフにはアブー・バルク(在位632~634)が即位し、その後二代目ウマル(在位634~644)、三代目ウスマーン(在位644~656)、四代目にはついに、アリー(在位656~661)にめぐってきます。これらのカリフは選挙によって選ばれ、「正統カリフ」と呼ばれます。ただし、五代目のムアーウィヤは選挙ではなく実力(アリーの暗殺)でカリフとなり、その地位を世襲化したため、以後のカリフは「正統カリフ」とは呼ばれませんでした。
カリフ | 在位 | 族/家 | |
---|---|---|---|
第1代 | アブー=バクル | 632~634年 | クライシュ族/タイム家 |
第2代 | ウマル | 634~644年 | クライシュ族/アディー家 |
第3代 | ウスマーン | 644~656年 | クライシュ族/ウマイヤ家 |
第4代 | アリー | 656~661年 | クライシュ族/ハーシム家 |
第5代 | ムアーウィヤ | 661~680年 | クライシュ族/ウマイヤ家 |
イスラム勢力の大発展
正統カリフ時代はイスラーム(アラブ民族)の大発展の時代であり、それまで、部族対立でバラバラだったアラブ民族はイスラームの教えによって一つに結集し、アラビア半島外への政治的勢力を急速に拡大させました。
初代カリフ、アブー=バクルの時代には、アラブ民族はジハード(聖戦)を行い、イスラム教以外の離反者や異教徒を征服しました。第二代カリフ、ウマルの時代には、イスラム軍がササン朝ペルシアに勝利し(642年ニハーヴァンドの戦い)、ビザンツ帝国とも戦ってシリアやエジプトを征服しました。
こうして、正統カリフ時代には、イスラーム(アラブ民族)は支配者階級としてアラビア半島を中心に大規模な地域を支配し、カリフはイスラームの指導者としてだけでなく、広大な土地の支配者として強大な権力と富を手にしました。
正統カリフに選ばれた人たちは、ムハンマドの布教が始まった頃からの古い信者であり、質素で素朴な信仰生活を営んでいました。しかし、三代目のウスマーンは贅沢な生活を送り、同族を優遇した政治を行ったことで反感を招き、結果として反乱兵士によって暗殺されました。そして、次の第四代の正統カリフにはアリーが選ばれました。
第二代カリフ ウマルの時代のイスラム共同体の領域
アリーの暗殺事件
アリーがカリフに即位した時、イスラム共同体(ウンマ/アラブ帝国)は拡大し、これに伴いカリフの権力も増大し、内部で権力争いが発生していました。シリア総督であったムアーウィヤはアリーのカリフ位に反対し、自らがカリフにふさわしいと主張して対立が続きました。アリーはムアーウィヤとの妥協を模索しましたが、その過程でアリーの妥協的な姿勢に不満を抱いた一派、ハワーリジュ派(離脱者たちという意味)が現れ、アリーを暗殺することに至りました。
アリーの死により、正統カリフ時代は終わりを迎えました。これは、イスラム共同体内部での権力闘争が複雑化し、対立する勢力によってカリフが殺害されるという歴史的な出来事でした。
ムアーウィヤとウマイヤ朝の興隆
アリーの暗殺後、ムアーウィヤ(在位661~680)は実力を背景にしてカリフとなりましたが、信者の選挙によらずにカリフになったため、正統カリフとは呼ばれませんでした。さらに、カリフの地位を自らの子孫に世襲させる政策を進め、これにより「イスラム共同体」は名目上のものであり、実質的には王朝となりました。
ムアーウィヤはダマスカスを都とするウマイヤ朝(661~750)を開き、ジハード(聖戦)を継続して領土を拡大させました。その結果、イスラム史上最大の版図が実現し、ウマイヤ朝は強大な勢力を築きました。
正統カリフ時代~ウマイヤ朝の時代は、アラブ民族(イスラム)の異民族支配の時代で「アラブ帝国」と呼んでいます。
イスラム共同体の版図拡大
コーランの編纂と成立
初代カリフであるアブー=バクルの時代に、ムハンマドの秘書であるザイド・イブン=サービトによって初のコーラン編纂が行われました。しかし、後に写本の間で読み方の違いが生じ、これを解消するため、第3代カリフのウスマーンの時代に再びザイドが中心となり、ムハンマドの死によって途絶えた神からの啓示を覚えている人々から聞き取って集めるよう信者たちに指示するとともに、様々な媒体に書き留められていた啓示が集められ、現在のコーランが整備されました。コーランには、ユダヤ教やキリスト教の聖書と共通する内容が多く見られ、イスラームの教義を確立する基本的な文献となりました。
中経文庫「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/「池上彰が紐解く、アラブの今と未来」in六本木アートカレッジ/橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方「教えて!尚子先生/中東・イスラム初級講座」/テレビ東京「137億年の物語」/ちくまプリマー新書「ものがたり宗教史 浅野典夫」/wikipedia