スンニ派とシーア派イスラム教の2つの宗派
ムアーウィヤの死後、息子のヤズィード1世がカリフに即位し、イスラム世界はその版図を広げました(イスラーム国家としては過去最大の版図)。しかし、この時期に重大な事件が発生しました。正統カリフであったアリーの息子フサインが、ヤズィード1世との間でカリフの地位を巡る争いを引き起こしました。
フサインはアリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの子であり、ムハンマドの孫としてハーシム家の名を背負い、イスラム世界で広く尊敬されていた人物でした。一方で、ヤズィード1世はフサインの存在を好意的に受け入れておらず、対立が激化していきます。
ヤズィード1世はフサインに対抗するため、3000名のウマイヤ軍を派遣しました。そして、カルバラーの戦いでフサインは虐殺され、その一族も奴隷にされてしまいました。
シーア派の発祥
フサインの殉教がきっかけとなり、アリーを支持するイスラーム教徒の反感が高まりました。これを受けて、アリーとその子孫のみを正当な後継者とする「アリーの党派」が結成され、彼らはアリーの子孫に忠誠を誓う立場を取りました。この「党派」はアラビア語で「シーア」と呼ばれ、これがシーア派の起源となります。
シーア派は、代々のカリフよりもアリーの子孫が最高指導者にふさわしいと信じ、代々のカリフに対して否定的な立場をとりました。この信念に基づき、シーア派は最高指導者を「イマーム」と呼びます。初代のイマームはアリーとされ、その子孫が続くこととなりました。
しかし、アリーの子孫は12代目で途絶えてしまいました。これにより、シーア派の信者たちは現在の状態を「悪」の時代と考え、イマーム不在の状態とみなしました。しかし、彼らは終末には再臨主(マフディ)が降臨し、イマームとして立ち、悪の世界から人々を救済するとの信仰を抱いています。
スンニ派の発祥
シーア派が成立した一方で、スンニ派も起こりました。スンニ派は、代々のカリフが正統であり、ムハンマドの血統に依存するのではなく、信者たちによって選ばれ、広く信頼を受けた人物がカリフになるべきだと主張しました。スンニ派はイスラムの慣習を守り、イスラム共同体のリーダーになる者は、全体からの信頼と選出に基づいているべきだと強調しました。「スンニ(スンナ)」とはアラビア語で「慣習」を指し、スンニ派はこの慣習を大切にし、守っていくことを重要視しています。
なお、世界のイスラーム教徒人口のうちシーア派が1割強、スンニ派が約8割を占めるとされています。
スンニ派とシーア派の違い
  | スンニ派 | シーア派 |
---|---|---|
信者の割合 | 約85% | 約15% |
聖典 | コーラン | |
共通の法源 | ムハンマドの言行、法学者の見解 | |
法源 | イジュマー(合意) | 歴代イマームの言行 理性(アクル) |
イマームの位置づけ | カリフの尊称 集団礼拝の指導者 | アリーの子孫で最高指導者 |
聖地 | メッカ・メディナ・エルサレム |
※法源:裁判官が裁判を行う際に基準となるもの
※シーア派の聖地には、上記の他、カルバラー、ナジャフ、コム、歴代イマームの廟などがあります。
対立の背景
イスラム世界は、主に後継者選びの問題、つまり、イスラム共同体を率いる指導者が誰かという問題が発端となり、シーア派とスンニ派に二分され、今も対立が続いています。現在、スンニ派が85%で多数を占め、次いでシーア派が15%、その他が1%ほどと言われています。国によっては偏りがあり、イランはシーア派が多数派(国教もシーア派)、イラクの東半分もシーア派が多数派です。サウジアラビアの南部やバーレーンにもシーア派がみられます。
このようにシーア派の分布を見ると、石油の埋蔵量が豊富な地域を中心に広がっています。シーア派は、「神が我々のために石油をくださった」と主張しており、この石油に関する争いがスンニ派とシーア派のもう一つの対立を引き起こしているとされています。イスラム世界におけるスンニ派とシーア派の対立は、単なる宗教的な対立だけでなく、土地や石油を巡る争いも背景にあるようです。
Source:United States. Central Intelligence Agency Muslim distribution
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