中東問題(パレスチナ問題)の発端

中東問題は、20世紀の初め頃から起こり始めた問題で、端的に言えば「ユダヤ人とアラブ人の中東地域(パレスチナ)の土地をめぐる争い」です。見かけ上、2つの民族の争いですが、背景には複数の国が関与しており、国際社会が引き起こしたとも言える問題です。関係各国の利害や2つの民族の精神面(宗教面)も絡んでおり、問題が複雑化しているため、解決が非常に難しいといわれています。

イスラエルに攻撃されるガザ地区

イスラエルに攻撃されるガザ地区


ユダヤ人とアラブ人の居住地域を分離する壁

ユダヤ人とアラブ人の居住地域を分離する壁

01/08

そもそも「中東」とは、どこなのか?

中東とは、イギリス(ヨーロッパ)から見たときの用語です。かつてイギリスは、インドやパキスタンを植民地にしていた時代がありました。そのため、イギリスにとっては、インド周辺が「東」にあたります。イラク周辺のアラブ圏は「中くらいの東」に位置しているため「中東」と呼ばれるのです。

ちなみに、日本周辺はインドよりもずっと東に位置しており、東の極限という意味で「極東」と呼ばれています。また、バルカン半島周辺が「近東」という呼び名になっています。

中東と呼ばれる地域

中東と呼ばれる地域


中東地域/総務省統計局の地図を抜粋

中東地域/総務省統計局の地図を抜粋

02/08

パレスチナとは

中東地域の中でも、イスラエル、ヨルダン、シリア、レバノンあたりは、中東問題の中心となっている地域で「パレスチナ」と呼ばれています。そのため、「中東問題」のことを「パレスチナ問題」と呼ぶこともあります。

中東問題(中東戦争など)で難民となったアラブ人は、「自らの故郷をパレスチナ」とする強い自覚が生まれ、「パレスチナ人」という呼称ができました。つまり、パレスチナ人とは難民となったアラブ人のことで、もともと「パレスチナ人」という人種や民族がいたわけではありません。現在では、中東地域に住むアラブ人を「パレスチナ人」と呼ぶことが一般的になっています。

03/08

中東問題の概要

中東問題とは、端的にいえば、「中東地域(パレスチナ)の土地をめぐる、アラブ人とユダヤ人の間の争い」のことです。

15世紀にオスマン帝国が東ローマを滅ぼしてから、パレスチナには、おもにアラブ人が住んでいました。それから約500年後の1947年、国連はパレスチナを、アラブ人の居住地域とユダヤ人の居住地域の二つに分ける決議を採択します。翌年(1948年5月14日)には、これに基づいてイスラエル(※1)が建国されました。ユダヤ人にとっては、約2000年ぶりの国家です。

「イスラエル」は、ユダヤ民族の父祖であるアブラハムの孫ヤコブの名に由来します。イスラエルは神からヤコブに与えられた名で、ヘブライ語の語源は「イスラ(戦う、戦士、秘密)」+「エル(神)」で日本語では、「神は戦う」、「神の戦士」、「神が支配する」などと訳されます。

一方、アラブ人は、それまで住んでいた土地を追われ、狭いパレスチナ自治区に追いやられます。当然、アラブ人は納得できません。

ユダヤ人にとってもパレスチナは神との約束の地。歴史を遡れば、ユダヤ人の祖先が神から祝福され、神から与えられ、繁栄した地、いわば「故郷」であるため、譲ることはできないのです。

結局、イスラエル建国の翌日に、周辺のアラブ諸国の連合軍(※)がイスラエルに侵攻し、4次にわたる中東戦争の火蓋が切って落とされます。

※アラブ諸国の連合軍=エジプト、シリア、トランスヨルダン、サウジアラビア、イラク、レバノン、パレスチナのアラブ人部隊を加えた軍勢

そして今なお「我々の住んでいた土地を返せ!」と主張するアラブ人と、「もともと私たちの先祖が神から授かった土地だ!」と主張するユダヤ人との間で、平行線をたどったまま、やまない対立が続いており、これを「中東問題」、「パレスチナ問題」と呼んでいます。

Column

ユダヤ人 Jews

 

本来は、イスラエル民族の父祖であるアブラハム(- イサク - ヤコブ)の子孫。一般的には、母がユダヤ人であるか、ユダヤ教の信者が「ユダヤ人」とされています。古代のユダヤ人は「ヘブライ人」と呼ばれることもあります。日本では第二次世界大戦中まで「セム人」とも呼んでいました。現在は「ユダヤ人」という呼称がほぼ一貫して使用されています。
歴史的に、ユダヤ人は、他の民族から追い出されたり支配を受けたり、様々な苦難がありました。ユダヤ人は世界人口の0.2%とごく少数ですが、ノーベル賞受賞者の5人に1人はユダヤ人。経済誌「フォーブス」によると、アメリカの大富豪上位400人のうち、約4分の1はユダヤ人とのこと。ユダヤ人はアメリカ経済を支えていると言えるでしょう。

〔参考・引用〕wikipedia
Column

アラブ人 Arabs

 

アラブ人とは、アラブ諸国(アラビア半島や西アジア、北アフリカ)に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々のこと。概ね「中東に住み、イスラム教を信仰する民族」と言えます。実際には、アラブ人がすべてイスラム教徒というわけではなく、また、中東のすべてのイスラム教徒がアラブ人というわけでもありません。なお、中東問題(中東戦争)で難民となったアラブ人をパレスチナ人と呼ぶようになり、その後、中東地域に住むアラブ人を一般にパレスチナ人と呼ぶようになりました。

〔参考・引用〕wikipedia
04/08

世界に離散したユダヤ人

紀元前11世紀、神がイスラエル民族(=ユダヤ民族/ユダヤ人)に約束した土地カナン(今のパレスチナ)にイスラエル王国が建国されました。ユダヤ民族の始めての国です。ソロモン王のときには、栄華を誇り、神殿を建設。しかしその後は、王国が分裂、他国による統治などを経て、紀元70年にはローマ帝国によって、神殿とともに王国が完全に滅ぼされました。その後、ユダヤ人はヨーロッパ各地に離散(※)し、差別と迫害の憂き目にあってきました。

※ユダヤ人の離散のことを「ディアスポラ/Diaspora」といいます。

05/08

パレスチナに住み着いたアラブ人

1453年、東ローマ帝国は、イスラム教国家であるオスマン帝国に滅ぼされます。その後、パレスチナには、おもにアラブ人(※)が居住するようになります。その後、1919年の第一次世界大戦の終結まで、パレスチナのアラブ人は、オスマン帝国の統治下にありました。

※アラブ人=一般的には「アラビア語を話し、イスラム教を信仰する民族」のこと。

06/08

第一次世界大戦に突入

20世紀初頭、ヨーロッパの列強は、産業の発展を競う帝国主義により、植民地をめぐって対立が激しくなっていました。特に、イギリス(大英帝国)は、世界各地に植民地があり、世界の覇権国家としての地位を占めていました。

イギリスが、さらなる植民地として目をつけたのがオスマン帝国の統治下にあったパレスチナ。パレスチナを手に入れれば、インドなど他の植民地への行き来がしやすくなるなど、国益の増進が見込まれたからです。

大英帝国の植民地/1919年

1914年 第一次世界大戦に突入します。イギリス・フランス・ロシアなどの連合国に対して、当時、中東地域を支配していたオスマン帝国は、同盟国側のドイツの援助を受けて参戦を決めました。戦火はヨーロッパから中東地域へと広がっていきました。

07/08

発端はイギリスの外交政策(三枚舌外交とは)

第一次世界大戦中、イギリスは、アラブ人との「フサイン・マクマホン協定/1915年」、フランス・ロシアとの「サイクス・ピコ協定/1916年」、ユダヤ人に対する「バルフォア宣言/1917年」という、3つの外交政策を展開します。これら3つの外交政策は、イギリスが戦争を有利に展開するという意図がありました。しかしそれは、今日まで残る中東の対立(中東問題/パレスチナ問題)を生む発端となってしまいました。

●フサイン・マクマホン協定(対アラブ人/1915年10月)

第一次世界対戦当時、アラビア半島には、オスマン帝国の統治に不満を持つアラブ人がいました。イギリスのマクマホン(駐エジプト高等弁務官)は、アラビア半島に住む、アラブ民族の有力者フサイン(メッカの太守)に近づきます。彼らにオスマン帝国への反乱を起こさせ、戦争を優位に展開しようとしたのです。
イギリスのマクマホンはフサインに、「アラブの人々がオスマン軍に勝利した暁には、アラブ独立国家の建設を支援しよう」と持ちかけます。オスマン帝国からの独立を夢見ていたフサインは、これに同意します。思惑が一致したイギリスとアラブは、1915年「フサイン・マクマホン協定」を結びます。翌年の1916年、アラブの反乱が始まりました。

●サイクス・ピコ協定(対フランス・ロシア/1916年5月)

フサイン・マクマホン協定を結んだ翌年、イギリスは、アラブの人を裏切るような外交を展開していました。オスマン帝国を滅ぼし、パレスチナを手に入れたら、イギリス・フランス・ロシアで、オスマン帝国の領土を、分割統治する秘密協定を結びます。それが1916年の外交政策「サイクス・ピコ協定」です。

●バルフォア宣言(対ユダヤ人/1917年)

1917年、戦費が不足していたイギリスは、ユダヤ人の財閥(※)に資金援助を求めます。その引き換えとして、「オスマン帝国からパレスチナを奪ったら、ユダヤ人のための祖国(National Home/国民的郷土)の建設を支援する」と約束しました。これが「バルフォア宣言」です。

ユダヤ人の財閥…大富豪家のライオネル・ロスチャイルド

3つの宣言・協定の中で、アラブ人との約束(マクマホン宣言)とユダヤ人との約束(バルフォア宣言)とは特に矛盾しているといわれています。端的に言えば、ユダヤ人とアラブ人の2つの民族に対して、パレスチナという一つの領土を与えるという約束をしたとみなされるからです。

長引く戦争によって、イギリスは戦費が不足していました。戦争を早く終わらせたかったイギリスは、味方同士や中立国との間で、複雑な密約を交わすしかなかったのです。

※この3つの宣言・協定に対して「(イギリスの)三枚舌外交」と呼んでいます。アラブ人とユダヤ人の対立という視点から、サイクス・ピコ協定を除いて「二枚舌外交」と呼ぶ場合があります。

08/08

アラブ人とユダヤ人の対立の激化

第一次世界大戦は、1919年に終結。イギリスを含む連合国側が勝利し、パレスチナを統治していたオスマン帝国を含む中央同盟国側は敗れます。そして、パレスチナ(イスラエル・ヨルダン・イラク)は、イギリスの委任統治下に入り(※)、1920年には実質的に植民統治を開始します。

※委任統治…第一次世界大戦後、国際連盟の委任のもとに、戦勝国が敗戦国の植民地などに対して行った統治(kotobank.jpより)。

※現在のシリア、レバノンはフランスの委任統治領になりました。

パレスチナでは、「バルフォア宣言」を信じたユダヤ人はパレスチナへ次々と移住してきます。さらに、1933年頃からは、ナチスによるユダヤ人迫害がはじまり、ユダヤ人の移住に拍車がかかります。パレスチナは、ユダヤ人とアラブ人が混在する地となっていきました。

先住のアラブ人にとっては、降って湧いた災いのようなものです。突然、パレスティナにユダヤ人が移住してきて、次々と土地を買収します。ユダヤ人が、パレスチナを自分たちの国にしようとすることで、アラブ人の生存権が脅かされることになりました。これを容認できないアラブ人との摩擦は激しくなっていきます。1936年には、アラブ人の不満が爆発し「アラブの大蜂起」が起きます。

さらに、第二次世界大戦中には、ナチスドイツによるユダヤ人のホロコーストが激化し、ユダヤ人の移住に拍車がかかります。同時に、アラブ人とユダヤ人との対立も激化していきます。あまりの激しさにイギリスは手に負えなくなり、結局、問題の解決を国連に委ねることとなりました。

Column

対立の始まり

旧約聖書に登場するアブラハムは。アラブ人とユダヤ人の祖とされています。アブラハムには、2人の息子がいました。長子イシュマエル(側妻ハガルの子)、次子イサク(本妻サラの子)です。イシュマエルの子孫がアラブ人であり、イサクの次男(ヤコブ)の子孫がユダヤ人です。イシュマエルはイサクをいじめており、日々それを見ていたイサクの母(本妻サラ)は我慢が限界に達し、アブラハムにそれを告げます。結局、イシュマエルとその母ハガルは、アブラハムに追い出されてしまいます。それぞれの民族の始祖の段階から、対立があったようです。


〔参考・出典〕
中経出版「図解/池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/NHK高校講座「世界史」/wikipedia