パレスチナ問題の経緯 第一次世界対戦後

第一次世界対戦後(中東・パレスチナ問題)

第一次世界大戦後、パレスティナをめぐるアラブ勢力とイスラエルの間に紛争が起こった。19世紀末頃からのシオニズム運動が活発化し、ユダヤ人のパレスティナ流入が盛んになった。第一次世界大戦中、英国が「フサイン・マクマホン協定でアラブ人に、バルフォア宣言でユダヤ人に、それぞれパレスティナにおける建国を約束するという矛盾した政策をとったことで、両民族の対立が激しくなっていった。

1922年

委任統治領パレスチナの決議案

第一次世界大戦で、敗戦したオスマン・トルコ帝国の領土は、イギリス帝国(大英帝国)とフランスの委任統治領になった。シリア、レバノンはフランスの、イラク、ヨルダン、パレスティナはイギリスの支配化におくことになった。

国際連盟による委任統治領/第一次大戦後

※委任統治領パレスチナの決議案…1922年7月24日に国際連盟理事会で公式に承認され、1923年9月26日に発効した

一方、アラブ人とユダヤ人は、それぞれ「フサイン・マクマホン協定」、「バルフォア宣言」の約束を果たすよう、イギリスに国家建設を要求した。

1923年

トランスヨルダンの建国

イギリスはアラブ人との約束を実行するため、1923年にトランスヨルダンというアラブ人の独立国家を建国。

一方、ユダヤ人に対して、イギリスは「バルフォア宣言」の約束を実行せず、パレスチナは委任統治領のままであった。ユダヤ人は国家を持ったアラブ人とイギリス帝国に対し敵愾心(てきがいしん)を持つようになっていった。

1929年8月

嘆きの壁事件

バルフォア宣言後、9年間で10万人のユダヤ人がパレスチナへ入植していた。パレスチナの土地を所有するユダヤ人も増え、ヘブライ大学も建設された。世界各国に離散している同胞から支援を受けながら、また、政治や経済に多大な影響力を持つロスチャイルド家などの強力な後ろ盾を持つユダヤ人入植者の急増に、アラブ人は危機感を募らせていた。

1929年、エルサレムの「嘆きの壁」にユダヤ人の青年たちがシオニストの旗を立て、シオニズムの歌を歌った。これに端を発し、アラブ人とユダヤ人の大規模な衝突が始まった。衝突はパレスチナ全土へと広がっていった。

嘆きの壁事件
Palestine riots - Hartuv Jewish colony set on fire by Arabs
1929 August 23 to 31 Source:wikimedia.org

※アラブ人とユダヤ人と摩擦が生じることは、両者が互いに消耗するため、イギリスの国益にかなっていたといわれている。

1933年
頃~

ナチスによるユダヤ人迫害

1933年頃からナチスによるユダヤ人迫害がはじまった。ユダヤ人は、「バルフォア宣言」におけるイギリスとの約束を信じて、ナチス支配地域を逃げ出し、パレスチナ地方へ大量に押し寄せた。それがさらに、ユダヤ人国家建設の動きを推し進めることになった。

Source:wikimedia.org

1936年8月~

アラブの大蜂起 1936年8月~1939年8月

1936–1939 Arab revolt in Palestine against the British アラブの大蜂起
Source:wikimedia.org

ユダヤ人に土地を与えることを容認できないアラブ人と次々と入植するユダヤ人の摩擦は激しくなっていった。アラブ人はイギリスにユダヤ人入植の矛盾や不安を訴え続けるが、ことごとく却下された。

1936年には「アラブの大蜂起(ほうき)」が起こった。独立を求めるアラブ人が、反英ゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を行い、パレスチナは麻痺状態に陥った。

また、軍事活動を伴うアラブの激しい反シオニズム運動も起こった。アラブはユダヤ共同体をテロ攻撃し、ユダヤ人500人以上が惨殺(ざんさつ)された。イギリス政府は農村部での統治能力を失なうことになった。

1937年

パレスチナ分割案

アラブの大蜂起に困惑したイギリスはピール調査委員会を設け、パレスチナに派遣。1937年にピール委員会は「パレスチナ分割案」を発表した。「パレスチナの1/5をユダヤ人国家に、そしてトランスヨルダンを含むアラブ人国家、さらにエルサレムを含む委任統治地域の3つに分ける」という案であった。しかし、ユダヤ人に土地を与えることを容認できないアラブ最高委員会は拒否した。

1938年11月9日

水晶の夜(クリスタル・ナハト)

1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツ全土でナチスが突撃隊などを使って、ユダヤ人の住宅、商店地域、シナゴーグなどを次々と襲撃、放火した。

Kristallnacht 水晶の夜

※水晶の夜…破壊されたガラスの破片が月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことから、この名がついた。

1939年2月

パレスチナ白書

イギリスはパレスチナ分割案を破棄し、パレスチナ全域に独立国家を作る案を提示した。これが「パレスチナ白書」である。その内容は、概ね次のとおり。

  1. パレスチナをユダヤ人の国家とすることは、英国政府の政策ではないことを明確に宣言する
  2. ユダヤ人への土地の譲渡は特定の地域に限定する
  3. 10年以内にパレスチナが独立することを保障する。それまでの間はイギリスの管理下でパレスチナ自治を行う。
  4. パレスチナのユダヤ人を全人口の 1/3 に止める。

しかし、ユダヤ人たちは「バルフォア宣言」を無視したような内容を見て、イギリスの裏切りと見なした。そして、シオニスト運動の中で反英活動が活発化。英国政府機関に対して激しいテロも頻発するようになった。また、アラブ側も10年という移行期間が信じられずこれを拒否した。


〔参考・引用〕
Hiroshi UEHARA on Line「パレスチナ、土地をめぐる戦争-オスロ合意までの経緯-」/中経出版「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/静岡県立大学 国際関係学部 宮田律「ユダヤ人の歴史概観」/ヘブライの館「イスラエル共和国の建国史」/wikipedia