性善説と性悪説性善説が正しい根拠
人間の持つ悪について、2つの考え方があります。一つは人間の本「性」は「善」であるという「性善説」、二つめは、人間の本「性」は「悪」であるという「性悪説」です。性善説が正しいのなら、人間は本来「善」であるので、後天的に「悪」が入り込んできたことになります。
人間は堕落状態にある
人間は、誰もが幸福を願っています。そして、私たちは幸福になるために行動します。 人生の目的は幸福になることといえるでしょう。しかし、幸福を求めて行動しているのに、結果として、不幸に到達してしまうことがあります。
「義なる欲望」が善い結果がもたらし、喜びとともに、本然の幸福が実現します。
しかし、 人間は、幸福とは相反する(正反対の)「不幸」に陥ることもあります。 「不義なる欲望」が悪い結果をもたらし、不安や呵責などとともに、不幸をもたらします。
このように、人間は、幸福に向かう「義なる欲望」を持っているものの、 これとは相反する 不幸に向う「不義なる欲望」も同時に持っているのです。
哲学的な視点で見れば、同じ一つの個体が相反する2つの目的を持って存在することはできません。 人間は破滅したような状態に陥っているのです。
これを「人間の矛盾」、「人間の堕落」などと表現しています。
性悪説と性善説
人間と人間がつくる世界には「善」と「悪」が同時に存在し、「幸福」と「不幸」も同時に存在しています。
人間は幸福(善)を願っているのに、なぜ不幸(悪)が存在しているのでしょうか。 そもそも人間という存在に「悪」や「不幸」、「苦しみ」がもともとあるものなのでしょうか。それとも本当はあってはいけないものなのでしょうか。「善」と「悪」について、歴史上、2つの対立する主張がなされてきました。
一つは「性悪説」です。 端的にいえば「人間は神様ではないのだから、悪や不幸があって当然。悪や不幸があるからこそ人間なんだ。」ということです。 すなわち、人間は本来、悪なる存在として生まれてきた、「人間の本性は悪」であるという考え方です。
もう一つは「性善説」です。 端的にいえば「人間の本性は善であり、どこかで何かが狂った結果、悪が後から人間に入り込んできた。だから、不幸や悪を消滅させようと努力するのだ。」という考え方です。すなわち、「人間の本性は善」であるという考え方です。
換言すれば、先天的に悪が人間に備わっているという考え方が「性悪説」で、悪は後天的に生じたもの(入り込んできたもの)であるという考え方が「性善説」です。
性善説が正しいと考えられる根拠
現実を見れば、性善説と性悪説について、どちらも正しいような気がします。 しかし、「性悪説」と「性善説」は対立する考え方で、同時に成立することはできません。 ここでは「性善説」を肯定すべく、その根拠を身近な例から挙げてみます。
- 私たちは、喜びや幸福、善が近づいてくるときには、大歓迎します。しかし、少しでも、苦しみや不幸、悪が近づいてきそうになったら、逃げたり、拒絶したりします。人間は本来、喜びや幸福、善には調和し、苦しみや不幸、悪とは相容れないということがわかります。
- もし、性悪説が正しいのであれば、この世の不幸や悪を当然と考えるはずです。しかし、人間は悪や不幸を嫌い、避けようとします。これは本来人間は善なる存在だからではないでしょうか。
- 勧善懲悪という言葉があるとおり、人間は悪なる世界、不幸な世界を撲滅させ、善なる社会、平和な世界を追求し続けています。これは、本来人間は善なる存在であるため、後から入り込んできた悪を排除しようとしているのではないでしょうか。
- 善と悪が葛藤するからです。悪を抑えようとするのです。 人間も悪を行なおうとすると、葛藤が起こります。人間の心の世界の反映が今の世界の現状なのです。
- テレビドラマなどで、悪がどんどん栄えていく場面を見ると、胸が痛みます。しかし、善が勢力を伸ばすときには、痛快な思いで楽しく見ることができます。
- そもそも「悪を善くないこと」と感じたり、「世の中が矛盾している」と感じること自体、本来の状態からズレているということを認めていることになります。人間は無意識で「善」を基準として考えているのです。
以上の例を見ても、人間の本性は善(性善)であり、悪はいわば「招かざる侵入者」のように思えます。
人間にいつ悪がいつ入りこんだのか
性善説は、悪はもともと存在せず、後天的に入り込んできたという考え方です。 つまり、善は先天的であり、悪は後天的に入り込んできた(後天的に生じた)と考えます。 ではいつ悪が入り込んできたのでしょうか。 人類歴史を見ると、闘争の歴史が続き、矛盾のない時代はないように見えます。 手がかりとなるのは神話です。 世界の神話には人類歴史が始まってまもなく、悪が入り込み、広がってしまったような事件が記録されています。
人類歴史の出発点で事件があった
いつ悪が入り込んできたのかを探るべく、人類の歴史の様相を見てみましょう。 例えば「100年前に悪があり、101年前は善のみであった」という事実があれば、100年前と101年前の間に何か事件があったのではと推測することができます。
人類は、太古より現在に至るまで、闘争を繰り返しており、人類歴史は闘争歴史ともいえます。 人々は、不幸と悲しみ、苦しみに陥ってきました。矛盾(悪)を、闘争という視点で見た場合、闘争がなかった時代はありません。 紀元前のギリシャやローマの時代にも戦争はありましたし、旧約聖書の中にも戦争の記録が多く残されています。 矛盾のない時代を発見できないのです。しかし、人類歴史が始まった時点で、すでに不幸や苦しみがあり、矛盾があったのなら、それは悪が先天的にあったことになるので、性善説に反します。
このように考えた場合、人類歴史が始まってまもなく、何か矛盾を生じるような事件があったのではないかと考えられます。
世界最古の侵略戦争
ドイツ考古学者の調査で、これまで確認された中で人類最古となる「戦争」が約6000年前にシリアで行われたことを示す可能性のある遺跡が発見されました。シリア北東部にある対イラク国境地帯の町ハモウカルで、紀元前4000年ごろとみられるよく乾燥させた粘土球が大量に発見されたのです。米シカゴ大学東洋研究所のクレメンス・ライヒェル氏は、南メソポタミアの都市国家ウルクが、北部にあるハモウカルを侵攻し、粘土球を弾丸のような武器として用いて陥落させたと推測しています。これを「世界最古の侵略戦争」と指摘しています。
人類歴史が始まった頃、何があったのか
人類歴史が始まった頃の記録としては、世界中に神話があります。神話なので学術的な根拠は乏しいのですが、どの神話にも人間の歴史が始まった頃、世の中に悪や不幸をもたらすようになった事件(失敗談)があったという共通点があります。
ギリシャ神話「パンドラの箱」…開ける事を禁じられていた箱を、人類始祖である女性のパンドラが開けてしまったために悪がこの世に広がってしまった。
出典 | 内容 | |
---|---|---|
失楽園の物語 | 旧約聖書 | 人類始祖の女性エバは、決して食べてはいけないと命じられていた善悪知る木の実を食べてしまった。その結果、神は激怒し、エデンの園から追い出されてしまった。キリスト教ではこれを諸悪の根源(原罪)としている。 |
パンドラの箱 | ギリシャ神話 | 人類最初の女性パンドラは、決して開けてはならないと命じられていた箱を開けてしまった。箱の中からは、病気や憎しみ、悪だくみなど人間を苦しめるあらゆる悪が飛び出し、人間世界に広がってしまった。 |
イザナギ・イザナミの物語 | 日本神話 | 誤った結婚により、生まれてくるのはヒルのようなグニャグニャとした子やぶくぶくと実体とないような姿をした未熟児ばかりであった。結婚をやり直したが、イザナミ(女性)は火の神を生み、女性器に火傷を負って死んでしまった。死んだ後は黄泉の国に行ったが、ウジがたかるような汚れた身体になってしまった。 |
救いとは
神話を見ると、人類の歴史が始まった頃、人間自身が悪や不幸をもたらすようになった事件が起こっています。その事件を起こしてしまった結果、悪が入り込み、矛盾が生じてしまったと読み取れます。特に、キリスト教では、旧約聖書の失楽園の事件において、人間は「原罪」という罪を背負ってしまい、堕落してしまったと理解されています。
※失楽園の物語は、日本ではあまり馴染みがないかも知れませんが、世界的には多くの人が知っている神話です。
※善悪知る木の実は、何か毒の入ったような物理的な実ではなく、何かを象徴していると考えられます(食べた本人が生きているため)。
そして、ます。そのため、キリスト教だけでなく、仏教でも、どんな宗教でも「あなたは立派な人間ですね」などとは言ってはくれません。「罪人」、「業が深い」、「因縁がたたっている」などと言われます。要は「あなたを不幸にする原因はあなたの中に入っていますよ」ということを言わんとしているのでしょう。
キリスト教には「救い」という概念があります。堕落した人間を救って、悪や不幸、苦しみから解放するという思想です。ちょうど、医者が病人を治療し、回復させるように、救い主により、堕落した人間を本然の人間に復帰(治療)するという考え方です。