十字架上でも教えを説き続けたアンデレ
Jusepe de Ribera 1616
アンデレ(アンドリュー)はシモン・ぺトロの弟で、ガリラヤ湖畔のベトサイダの元漁師です。ペテロとともに洗礼ヨハネの弟子でしたが、イエスの最初の弟子の一人になりました。イエス昇天後、主に黒海沿岸などアジア地方で宣教活動を行いました。ギリシャでアイゲアテスにより投獄され、X字型の十字架で処刑され殉教しました。
スコットランドでは、11月30日は守護聖人・アンデレを記念する日です。聖アンデレの日として祝日となっています。スコットランドの他、ルーマニア、ギリシャ、ロシアなどでもアンデレを守護聖人としています。
アンデレ
アンデレは、ガリラヤ湖畔のベトサイダの出身です。漁師を生業としており、兄ペテロ(シオン)とともに洗礼ヨハネの弟子でした。
ある日、洗礼ヨハネとアンデレが一緒にいると、イエスが歩いていました。すると、洗礼ヨハネは、「見よ、神の小羊だ」と言って、彼がメシヤであることを証します。これを聞いた二人の弟子は急いでイエスのあとを追いかけ、その日は、イエスとともに過ごしました。
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ(=先生)どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
日本聖書教会「新約聖書」
兄ペテロをイエスに紹介
イエスとともに過ごした翌日、自宅に帰ったアンデレは兄のペテロ(=シモン)にメシアに出会ったことを伝え、イエスのもとへ連れていきました。
ある日、アンデレとペテロの兄弟が、漁をしていると、再びイエスに声を掛けられました。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれると、彼らはすべてを打ち捨てて、イエスの後についていった。こうして、アンデレとペテロの兄弟は、イエスに弟子入りしました。
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(=岩/ペテロ)と呼ぶことにする」と言われた。
日本聖書教会「新約聖書」
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
日本聖書教会「新約聖書」
パンと魚の奇跡をもたらしたアンデレ
イエスの信者は日ごとに増え続け、ガリラヤ湖畔の説教には、5000人余りの群衆が集まっていました。夕暮れどきになっても、人々は帰ろうとせず、誰もが空腹を感じていました。弟子たちは群衆の腹を満たすだけの食糧を持ち合わせていませんでした。
そのときに、アンデレが1人の少年を連れてきました。その少年は、5つの大麦のパンと2匹の魚を持っていました。当時、大麦のパン(※)は貧困層の食べ物でした。貧しい家の少年が持って来た弁当だったようです。
アンデレは、こんなに大勢の群衆の前では、少年のお弁当だけでは、何の役にも立たないだろうと、あきらめていた。しかし、イエスが感謝の祈りを唱え、それらを分け与え始めると、不思議なことに5000人全員に行き渡りました。
アンデレがその少年を連れてきたことと、そして、少年が大切な弁当をみんなのために差し出した小さな愛。それらがきっかけとなり、イエスの奇跡がもたらされたといわれています。
弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
日本聖書教会「新約聖書」
大麦パン
現代では、大麦を主成分としたパンは美味しく作られ、広く販売されています。しかし、大麦はもともと家畜の餌として利用され、今でも家畜の餌やビールのモルトなどに利用されています。大麦は古代から紀元前後までパンの主要な原料であり、聖書には大麦や大麦パンに関する言及が多く見られます。奴隷たちがピラミッドを建造したり、ローマのグラディエーターやバイキングたちが大麦パンを食べていたと伝えられています。
ただし、西暦紀元を迎える頃、ローマでは小麦粉から作られたパンが香りがよく、おいしいことが発見され、これにより大麦パンは次第に衰退していきました。大麦パンはその重さや硬さ、そして小麦パンのフレッシュな味わいの持続性の差から、徐々に存在感を失い、やがて貧困層の食べ物となっていったとされています。
ギリシャ語を話せたアンデレ
アンデレはガリラヤ湖畔のベトサイダ出身です。この地方は、ギリシャ文化の影響を受けており、ギリシャ語も話せる人が多かったと言われています。ギリシャ人たちが祭りに参加するためにエルサレムにやってきたときアンデレが通訳役として働いたようです。ギリシャ人たちアンデレに会い、イエスに会いたいと伝えたとき、アンデレはフィリポとともにイエスのもとに行き、ギリシャ人の要望を伝えました。イエスはこの機会を通じて「人間の子が栄光を受ける時だ…」から始まる多くの有名な聖句を述べ、今に残すことができました。
時が来た。人間の子が栄光を受ける時だ。よくよく言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままでしかいない。死んでしまえば多くの実を結ぶであろう。自分の命をこの世で愛する者は、それを失うであろう。自分の命を憎む者は、それを保つであろう。わたしに仕える者がいるなら、わたしのあとについてきなさい。そして、わたしに仕える者がいるなら、その者を父は尊重してくださるであろう。
アンデレの宣教と殉教
イエスの昇天後、アンデレは、主に黒海沿岸などアジア地方で宣教活動を行ないました。ギリシャ(アカイア)(※)で宣教を行っていたとき、ローマ総督アイゲアテスに対して、キリスト教への改宗を強く迫ったところ、怒りを買い、処刑されてしまいました。
※アカイア:マケドニア以南のギリシャ全土。アカイアは新約時代のローマ帝国の属州名。
十字架に掛けられることになったアンデレは、「イエス様と同じ十字架では、畏れ多いので、斜め十字架にして下さい。」と自ら申し出たため、十字架を傾け、X字型の十字架で処刑されました。
「聖アンデレの磔刑」 マッティア・プレティ 1651年製作
南オーストラリア美術館
十字架に架けられたアンデレは、十字架上で、二日間生き続け、苦しみながらも二万人の人々に教えを説き続けたと言われています。アンデレは最後まで、謙虚で、師に忠実な弟子であったと伝えられています。アンデレの殉教のことは、アカイアやアジアの長老や助祭たちの手で、彼らがその眼で見たままに記され、伝えられているとのことです。
アンデレクロス
アンデレのX字型の十字架は「アンデレクロス(聖アンデレ十字)」として知られており、これは国旗、州旗、軍艦旗、紋章、勲章などに幅広く使用されています。特に、スコットランドでは、アンデレは守護聖人として崇敬され、その影響からX字が国旗に採用され、非常に尊重されています。同様に、アメリカ南北戦争の時やロシア海軍の軍艦旗などでも、「聖アンドレ旗」としてX字がデザインされました。
日本聖書教会「新約聖書」/創元社「聖書人物記」/日本文芸社「人物でよくわかる聖書(森実与子著)」/株式会社カンゼン「聖書の人々」/wikipedia/webio「世界宗教用語大事典」/ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」