最澄と空海

最澄と空海  さいちょうとくうかい天台密教と真言密教


インドから中国に伝わった密教を日本に持ち帰ったのが空海で、学問としての密教は空海により日本で完成され、真言密教となります。一方、空海と同じ遣唐使船で804年に中国に渡った最澄は、天台宗とともに密教の一端を持ち帰り、後継者の円仁、円珍らによって天台密教が完成されました。

紀元前500年にインドで生まれた釈迦仏教は、自分一人の悟りを最優先する思想でしたが、やがて紀元前後に利他思想に基づく人々の救いを唱える大乗仏教(※1)が生まれました。その大乗仏教の最終段階として、7~8世紀にインドで発展したのが「密教(※2)」で、古来のヒンズー教の神々も取り込み、神仏習合の形で成立します。

※大乗仏教…個人の悟りのためではなく、多くの人々を理想世界に運ぶ大きな乗物という意味

※密教…秘密に説かれた深遠な教えという意味で、秘密教、真言密教などともいいます。7世紀頃、インドのベンガル地方で起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安時代初期に空海・最澄によって伝えられ、貴族などに広く信仰されるようになりました。

天台密教と真言密教

インドから中国に伝わった密教を日本に持ち帰ったのが空海で、教学(学問)としての密教は空海により日本で完成され、真言密教となります。一方、空海と同じ遣唐使船で804年に中国に渡った最澄は、天台宗とともに密教の一端を持ち帰り、後継者の円仁(えんにん)、円珍(えんちん)らによって天台密教が完成されました。

入唐の年、38歳の最澄は桓武天皇に重用されたエリート僧で、官費(国費)による留学でしたが、31歳の空海は無名の若者で私費留学、そのお金は山野修行をしていたときに知り合った水銀技術部族が出した、または、四国の諸豪族が金銀をさし出したなど、さまざまな推測がなされています。

位でははるかに低い空海が、当時、密教の最高峰だった恵果(けいが)から灌頂(かんじょう)を受け、つまり正統な後継者として認められ、教典や法具など一式をそろえて帰国したので、最澄は空海から密教を学ぼうとします。しかし、2人の交流とともに葛藤も生じ、やがて袂を分かち、別々の道を進むようになります。結果的には、それが日本仏教を豊かにしたといわれています。

密教の広がり

密教の奥義を窮めた空海は、その修法が皇室に取り入れられ、玉体護持の護国仏教として国を支えるようになります。その象徴が京都にある泉涌寺(せんにゅうじ)で、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」とよばれています。

一方、最澄が開いた比叡山延暦寺はいわゆる鎌倉仏教の宗祖となった浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などが学び、日本仏教の総本山の観を呈するようになります。このように、日本の仏教は多くの宗派が生まれることで間口が広がり、民衆に浸透していきました。

日本人の思想と仏教

最澄も空海も、古来からの神道を吸収し、仏教と習合させていきます。全ての存在に仏性を認める、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」の思想は1万年以上続いた縄文時代から日本人が持ち続け、後に神道として表現されたもので、それに理論を与え、思想のレベルに高めたのが世界宗教である仏教といえるでしょう。


〔参考・引用〕
真の家庭運動推進協議会「真の家庭 No248 日本人のこころ」/wikipedia/コトバンク