聖書と歴史の学習館

第八の災いイナゴの大群が
エジプトを襲う

ブレーム動物事典(第二版)の挿絵
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懲りないファラオ

イスラエルの神ヤハウェは、イスラエルの民を奴隷の身分から解放するため、モーセを通してすでに七度にわたりエジプトに災いを下していました。そのたびに、エジプト王ファラオは恐れおののき、「イスラエルの民を去らせる」と約束します。しかし、ひとたび災いが収まると、その心は再び頑な(かたくな)になり、約束を翻してきたのです。

この態度に、ついに家臣たちも我慢の限界を迎えます。彼らはファラオに進言しました。
「いつまで、あの者たちにエジプトを滅ぼされ続けるおつもりですか。国はすでに破壊され尽くそうとしています。彼らを去らせるべきではありませんか。」

国の崩壊を目の当たりにし、さすがのファラオも動揺します。彼はモーセとアロンを呼び寄せ、妥協案を提示しました。
「男たちだけが出て行き、ヤハウェのために祭りを行うのなら許そう。」

しかし、モーセとアロンはこの提案を受け入れませんでした。ヤハウェに仕える祭りは、一部の者だけの行事ではなく、老人も子どもも、男も女も、家畜に至るまで、イスラエルの民すべてが参加すべきものだったからです。交渉は決裂し、ファラオの心は再び閉ざされます。

こうして、エジプトにさらなる決定打となる第八の災いが下されることになります。それが、「イナゴの災い」でした。

なぜ「男だけ」ではだめだったのかファラオの妥協案に隠された支配の論理

ファラオが提示した「男だけを行かせる」という条件は、一見すると譲歩のようにも見えます。しかし、この条件には、イスラエルの民を完全には自由にしないという、きわめて政治的な意図が隠されていました。

古代社会において、妻や子ども、家畜をエジプトに残すことは、事実上の「人質」を差し出すことと同じ意味を持ちます。男たちが祭りに出かけたとしても、家族がエジプトに残されていれば、彼らはいずれ必ず戻ってこなければなりません。ファラオは、イスラエルの民の自由を認めるふりをしながら、その支配権だけは手放さないつもりだったのです。

一方、モーセとアロンが求めたのは、部分的な自由ではありませんでした。ヤハウェに仕える祭りは、男だけの宗教行事ではなく、共同体全体が参加すべきものでした。老人も若者も、子どもも、さらには家畜に至るまで、すべてが神の所有であり、神に属する存在であるという理解が、その背後にあります。

つまり、この交渉は単なる人数の問題ではなく、「誰が真の支配者なのか」をめぐる対立でした。ファラオは、自らがイスラエルの民の運命を握っていると考えていましたが、モーセたちは、民のすべてがヤハウェのものであると主張したのです。

この一点で妥協しなかったことが、交渉決裂の決定打となり、やがて第八の災い「イナゴの災い」へとつながっていきました。


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第八の災い

イナゴの災い

The Plague of Locust

モーセが杖を地に向かって差し伸ばすと、その日一日、そして夜を徹して、激しい東風(※)が吹き荒れました。翌朝、その風に運ばれるように、無数のイナゴの群れがエジプト全土へと押し寄せてきたのです。

イナゴは地の面を覆い尽くし、大地の色が見えなくなるほどでした。彼らは、雹の災いのあとにかろうじて残っていた草木や作物を、容赦なく食い尽くしていきます。イナゴが通り過ぎた後には、緑は一切残らず、畑も木々も、完全な荒廃だけが広がっていました。

この災いは、エジプト史上かつてない規模であったと記されています。食料の消失は、単なる自然被害ではなく、国の存続そのものを脅かす致命的な打撃でした。

※東風は、アラビア半島方面から吹いてくる乾燥した熱風であると考えられています。聖書では、作物を枯らす破壊的な風としてたびたび言及されます。イナゴは羽を広げると、風に乗って時速20キロほどで、20時間以上飛び続けることもあるとされています(参考・引用:Logos Ministries.org)。


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第八の災いとイナゴの大発生― 聖書の物語を科学の目で見つめてみる ―

旧約聖書『出エジプト記』に描かれる第八の災いは、「イナゴの災い」と呼ばれています。空を覆い尽くすほどのイナゴが押し寄せ、作物という作物を食い尽くしてしまう。その描写は、物語として読んでも、非常に衝撃的なものです。

では、この「イナゴの大発生」は、現代の科学の視点から見て、どのように理解できるのでしょうか。

イナゴはなぜ大発生するのか

イナゴ(特にサバクトビバッタの仲間)は、ふだんは単独で生活する昆虫ですが、雨量の増加や植生の回復など、特定の条件がそろうと「群生相」へと変化することが知られています。

体の色が変わり、性格も攻撃的になり、集団で長距離を移動する。
この変化は偶然ではなく、生き残るための本能的な適応行動だと考えられています。

群れとなったイナゴは、風に乗って移動します。条件がよければ、時速20キロほどで何百キロも移動することが可能で、一晩で国境を越えることさえあります。

聖書に描かれる「東風」との一致

第八の災いでは、モーセが杖を差し伸ばすと、「東風が一昼夜吹き続け、その翌朝にイナゴが来た」と記されています。この「東風」は、アラビア半島方面から吹く、乾燥した熱風であると考えられています。
現代でも、イナゴの大群が特定の季節風に乗って発生・移動することは、数多く報告されています。

つまり、
・長期間の風
・すでに弱っていた作物(雹の災いの直後)
・乾燥と高温の気象条件
といった要素が重なれば、イナゴによる壊滅的被害が起こること自体は、科学的にも十分に説明可能なのです。

「不思議な出来事」と「説明できる現象」

もちろん、聖書は科学の教科書ではありません。
イナゴがいつ、どの規模で、どのタイミングで現れたのかなど、それをすべて自然現象だけで説明できるかどうかは、断言できません。

しかし、自然界で実際に起こり得る現象を通して、人々に強い意味を伝えたと考えることはできます。第八の災いが特別だったのは、イナゴそのものではなく、それが「約束を守らない王」と「崩れていく国」の上に、決定的な形で現れた点にありました。

現代に生きる私たちへの問い

イナゴの災いは、単なる昔話ではありません。

自然は、人間の都合に合わせて動くものではなく、小さな無視や判断の積み重ねが、やがて取り返しのつかない結果を生むことがあります。

第八の災いは、「自然の力」と「人の心のかたくなさ」が重なったとき、何が起こるのかを静かに問いかけているのかもしれません。

旧約聖書
の写真

 

主はモーセに言われた。「手をエジプトの地に差し伸べ、いなごを呼び寄せなさい。いなごはエジプトの国を襲い、地のあらゆる草、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすであろう。」
モーセがエジプトの地に杖を差し伸べると、主はまる一昼夜、東風を吹かせられた。朝になると、東風がいなごの大群を運んで来た。いなごは、エジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようにおびただしいいなごの大群は前にも後にもなかった。いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった。

出エジプト記 10章12節~15節
旧約聖書
の写真

 

ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで頼んだ。「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。」
モーセがファラオのもとを退出して、主に祈願すると、主は風向きを変え、甚だ強い西風とし、いなごを吹き飛ばして、葦の海に追いやられたので、エジプトの領土全体にいなごは一匹も残らなかった。
しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。

出エジプト記 10章16節~20節
EgyptianGods

セス/SethThe god of storms and chaos

セス/SethThe god of storms and chaosの写真

 

旧約聖書に記される第八の災い「イナゴの災い」は、空を覆うほどの大群が作物を食い尽くす、エジプトにとって致命的な出来事でした。この災いについて、後世の解釈では、エジプトの嵐と混乱の神「セス(Seth)」が打たれた出来事であったと考えられることがあります。

嵐と荒ぶる力の神 セスとは何者か

セスは、古代エジプト神話において、嵐・砂漠・混乱・破壊的な力を司る神です。激しい風や砂嵐、自然の荒々しさを象徴する存在であり、秩序や安定を表す神々とは対照的な性格を持っていました。

神話では、セスは王権と秩序の神オシリスを殺し、その子ホルスと激しく争った神としても知られています。そのため、時代が下るにつれて、セスは「必要だが危険な力」「制御されなければならない混沌」の象徴として語られるようになりました。

また、セスは強風を起こす神としても信じられており、嵐や突風、自然の暴力的側面を人々に思い起こさせる存在でした。

※このセスは、嵐や強風、砂漠の荒々しい力を象徴する古代エジプトの神として知られています。として知られています。

「東風」とイナゴ、そしてセス

第八の災いでは、モーセが杖を差し伸ばすと、一昼夜吹き続けた東風によってイナゴの大群がエジプトに運ばれてきた、と記されています。

この描写は、嵐や強風を司るセスの役割と、重なる部分があります。古代エジプトの人々にとって、「制御不能な風」「荒れ狂う自然」は、まさにセスの力そのものでした。

そのため、イスラエルの神ヤハウェが風を用いてイナゴを呼び寄せたという物語は、
「風を支配すると信じられていた神セスの力が及ばなかった」
つまり、セスの権威が打ち砕かれた出来事として理解されたのです。

嵐の神が守れなかった国

もしセスが真に嵐と風を支配する神であったなら、その風はエジプトを守る方向に働くはずでした。しかし実際には、風は災いを運び、国の最後の食料を奪い去りました。

このことは、自然の力そのものを神格化しても、それが人を救うとは限らない という強烈なメッセージとして受け取られたと考えられます。

第八の災いが伝えようとしたこと

第八の災いは、単にイナゴが発生したという話ではありません。

それは、
・嵐を司る神セス
・王の権威
・人の計算や妥協
これらすべてが、
自然と歴史の大きな流れの前では無力である
ということを示す出来事だったのかもしれません。

こうして、イナゴの災いは、エジプトの神々の力と、イスラエルの神ヤハウェの力とが、真正面から対比される場面の一つとして語り継がれてきたのです。

※イナゴの災いは、嵐と風を司ると信じられていた神セスの領域においてさえ、エジプトの神々が国を守れなかったことを象徴する出来事として理解されることがあります。

🌱 こども向けコラム

第八の災いイナゴが空をうめつくした日

むかしむかし、エジプトの国で、とてもこわい出来事がおこりました。

モーセが神さまの言われたとおり、つえを地面に向けてのばすと、つよい風が、昼も夜も、ずっと吹きつづけました。

そして、つぎの朝――。

空のかなたから、黒い雲のようなものが近づいてきました。それは、なんと イナゴのたいぐん だったのです。イナゴたちは、畑のむぎも、木の葉も、草も、みんな、あっというまに食べてしまいました。

雹(ひょう)でこわれたあと、
やっとのこっていた作物まで、すべてです。

イナゴが去ったあと、そこには、みどりの色がひとつもありませんでした。

ファラオは、あわててモーセをよびました。
「もういい、行ってくれ。おねがいだ!」

でも、イナゴがいなくなると、
ファラオの心は、またかたくなになってしまいました。

こうして、エジプトの人たちは、「ことばだけの約束」 が、どんなに国をこわしてしまうかを、身をもって知ることになったのです。

🌼 このお話から考えてみよう

・うそをついたり、約束をやぶったりすると、どうなるかな?
・あやまったとき、ちゃんと直すことは、なぜ大切なんだろう?
・こまっている人の声を、聞かないままだと、何が起きるかな?

イナゴの災いは、ただのこわい出来事ではなく、
「人の心のあり方」を考えさせてくれるお話でもあるのです。

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