聖書と歴史の学習館

第十の災いエジプトの長子が
打たれる

The Death of the First Born
Erastus Salisbury Field 1865–80
01/04

第十の災い

イスラエルの神は、エジプトで奴隷として過酷な労役を強いられていたイスラエルの民を解放するため、これまで九つの災いをエジプトに下してきました。
ナイル川が血に変わり、疫病や暗闇が国を覆うなど、そのいずれもがエジプトに大きな打撃を与えるものでしたが、王ファラオの心はなおも頑なでした。

ファラオは、災いが起こるたびに一時的に民の解放を約束するものの、状況が落ち着くと約束を翻し、イスラエル人を引き留め続けます。
こうした度重なる拒絶の末、神はモーセとアロンに、これまでとは次元の異なる「最後の災い」を告げます。

それが、第十の災い「エジプトの長子が打たれる災い」でした。 この災いは、エジプト社会の根幹そのものを揺るがす、決定的な出来事となります。


02/04

エジプト人の長子が打たれる

第十の災いは、真夜中に静かに、しかし容赦なく訪れました。
人々が眠りについていたはずの町に、突如として悲鳴と嘆きの声が響き渡ります。

「うちの長男が死んだ」「家を継ぐ者がいない」…。
王宮から牢獄、貴族の家から奴隷の家に至るまで、エジプト中の家庭で長子が命を落としました。 それは単なる個人的な悲劇ではなく、家系・財産・信仰の継承を意味する“長子”を失うという、国家全体の崩壊を象徴する出来事でした。

しかし、この恐るべき災いは、すべての人々を襲ったわけではありませんでした。
イスラエル人の家々は、この夜を無事に過ごします。

神は事前にモーセを通して、「小羊の血を家の鴨居に塗るように」と命じていました。
血が塗られた家は災いが「過ぎ越される」と告げられていたため、イスラエルの民はその言葉を信じ、従ったのです。

こうして、鴨居の血は単なる印ではなく、信仰と従順のしるしとして、イスラエルの民を死から守る境界線となりました。


03/04

ファラオが打たれる

この最後の災いは、ついに王ファラオ自身をも直撃します。
ファラオの長子 ― それは王位を継ぐ存在であり、国家の未来そのものでした。

古代エジプトにおいて、ファラオは単なる支配者ではありません。
神々の子、あるいは神そのものとして崇拝され、絶対的な権威を持つ存在でした。

そのファラオの家に死が及んだことは、エジプトの神々の力が及ばなかったことを意味します。
この出来事によって、イスラエルの神は、エジプトのあらゆる神々に対する決定的な優位性を示したと理解されてきました。


04/04

ついにファラオが降参

王宮をも襲った深い悲しみの中で、ファラオの心はついに砕かれます。
その夜のうちに、彼はモーセとアロンを呼び寄せ、「ただちにエジプトを出て行け」と命じました。

長子を失った痛みは、王としての誇りと信念をも打ち砕き、もはや抵抗を続ける意味は失われていました。
こうしてファラオは降参し、イスラエル人の解放を正式に認めます。

ここにおいて、長く語り継がれる「出エジプト」の出来事が、ついに動き出しました。
それは単なる民族の移動ではなく、奴隷として生きることを強いられてきた民が、神の導きのもとで新たな歴史へと踏み出す瞬間でした。

喜びと緊張が入り混じる中、イスラエルの民は荷造りもそこそこに、エジプト人たちから金銀の装飾品や衣類を受け取り、夜明け前の地を後にします。
こうして彼らは、抑圧の地エジプトを離れ、約束の地へと続く長い旅路へ踏み出したのです。

Column

過越祭出エジプトを記念する祭

過越祭出エジプトを記念する祭の写真

 

過越祭(すぎこしさい/ペサハ)は、イスラエル三大祭りの中でも、とりわけ重要な位置を占める祭りです。この祭りは、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から解放され、神の導きによって出エジプトした出来事を記念するものです。

過越祭はユダヤ暦の1月14日(現在の暦ではおおよそ4月初め)の夕方から始まります。 この夜、ユダヤ人の家庭では「セデル」と呼ばれる特別な食事が行われ、遠い祖先が経験した、あわただしい出発の夜を世代を超えて追体験します。

食卓には、イーストを入れずに焼いた「種入れぬパン(マッツァー)」が並びます。 これは、出発があまりにも急で、パンを発酵させる時間さえなかったことを思い起こさせるものです。 また、苦菜は奴隷時代の苦しみを、塩水は流された涙を象徴し、ゆで卵は悲しみと同時に命の循環を表すとされています。

この晩餐には、家族だけでなく、少なくとも家族と同じ人数の客を招くことが勧められています。 その中には、異邦人や身寄りのない人、社会的に孤立した人々も含まれます。 それはかつて自分たちも「よそ者」であり、「助けを必要とする存在」であったことを忘れないためです。

過越祭は単なる歴史の記念日ではありません。 神によって奴隷の地位から解放されたという記憶を、食事・言葉・共同体を通して現在に生かす祭りなのです。 こうしてユダヤ人は毎年、自由とは何か、解放とは何を意味するのかを、家庭の食卓で静かに問い直しています。

旧約聖書/出エジプト記 9章8節~12節
旧約聖書

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。
ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」
エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。

旧約聖書/出エジプト記 12章 29節~33節
旧約聖書

イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。

旧約聖書/出エジプト記 12章 35節~37節
🌱 こども向けコラム

第十の災い🌙すぎこしの夜

エジプトの王さまファラオは、 何度も「行っていいよ」と言いながら、 そのたびに気もちを変えてしまいました。

そこで神さまは、 これで本当にさいごとなる 第十の災いをつげます。 でもこのとき、神さまは ただこわいことをするのではなく、 人びとを守るためのしるしも教えました。

🐑 いのちを守る「しるし」

神さまは、イスラエルの人たちに言いました。

・子ひつじをそなえること
・その血を、家の入り口(はしらと戸)につけること
・家の中で、家ぞくといっしょに夜をすごすこと

このしるしがある家は、災いが「すぎこされる」と約束されたのです。
このことから、この夜は「過越(すぎこし)」とよばれるようになりました。

🌌 しずかな夜に起きたこと

夜がふかくなると、 エジプトじゅうは、とても静かになりました。

そして、その夜。 これまでにない大きな悲しみが エジプトの国をおおいました。

王さまの家でも、 ふつうの人の家でも、 つらい出来事が起こったのです。

でも、神さまの言葉を信じ、 しるしをつけていた家は、 守られていました。

😢 ファラオの決心

その夜、ファラオはついに気づきました。
「もう、これ以上はだめだ…」
そして言いました。
「今すぐ、この国を出て行きなさい。」

長いあいだ苦しんできたイスラエルの人たちは、 こうして、自由への一歩をふみ出します。

🌟 このお話がつたえていること

第十の災いは、ただこわいお話ではありません。
このお話は――
・いのちは、とてもたいせつだということ
・人の力ではどうにもならないことがあること
・でも、守りの道は、ちゃんと用意されていること
を、そっと教えてくれています。

「聞くこと」
「信じること」
「家ぞくといっしょにいること」
それが、 暗い夜をこえるための光だったのかもしれませんね 🕯✨

© 聖書と歴史の学習館 for きっず